2014/12/29

『クリトン』


 ソクラテスは「彼より賢き者は誰もいない」という神託を受けたとして、アテナイでは時の人となっていた。ソクラテスはその神託が信じられなかった。自分よりも賢いであろう人たちに手当たり次第に会いにいったが、世間で評判の賢人たちは皆、ソクラテスの前で無知とその無自覚を晒すはめになってしまった。はたしてソクラテスは「なるほど、知らないことを知っていると思い込んでいる人よりは、私は僅かばかり賢いらしい。なぜなら、私は自分が何も知らないということを知っているから」と悟った。こうして噂はますます広がり、ソクラテスに議論を吹っ掛けてみる者、議論を吹っ掛けられる者、それぞれ後を絶たず、多くの喝采と多くの顰蹙を独り占めしている……というのが、男が持つソクラテスに関する知識の全てであった。

 都会の流行に疎い男の耳にも入っていたのだから、多感な年頃の息子が知らないわけがなかった。青年たちを集め、対話を重ねるソクラテスの姿を想像し、大いに憧れを持ったらしい。その年の収穫を終えた日、息子は父親に哲学者になりたい旨を告げた。父親である男は大いに驚いた。当たり前に農地を継いでもらおうと数年前から手伝わせて、ようやく一通りの仕事を覚えさせたばかりである。男は、自分の息子の頭の良さを知っていた。しかし、である。男にとってソクラテスの言っていることは、よくよく考えるとよく分からなかった。だから、ソクラテスに会ってみることにした。息子は哲学者になれるのか。ならせていいものか……。
 
 男はアテナイでアゴラ中を歩き回り、長い時間をかけて隈無く探してみた。どういう風貌をしているのか、声を掛けた者全てに尋ねたが、答えはまちまちであった。こっちで矍鑠とした老人であると聞けば、あっちでは年齢に不相応な美少年のような姿だという者も出てくる。眉目秀麗だという者がいれば、異形で醜悪だという者もいる。頭は禿げ上がってるだの、髪はふさふさだの、太鼓腹だの、痩せ細ってるだの、半裸で裸足だの、意外に美装を好むだの……それぞれが語るソクラテスの姿はてんでばらばらで、一人の人間の像として結ばれることがなかった。そもそもが神出鬼没だった。ヘパイストス神殿で見たという話を聞き、急いで向かうも姿はなかった。円堂の方へ向かったと言われ、追いかけるもそこでも出会うことはなかった。南の柱廊だ、民衆裁判所の前にいた、アポロン神殿かもしれない、いや十二神祭壇だ……といった声に男は右往左往させられた。結局、ソクラテスはどこにもいなかった。

 次の日、男はソクラテスに近づく方法を変えることにした。アロペケ区に住んでいることは聞き出せたので、朝から道すがら尋ねながら、ようやく一軒の家を探し当てた。出迎えたのは、一人の女であった。悪妻クサンチッペである。ソクラテスのことを尋ねると共に名前が出て、夫婦の滑稽なやり取りも聞いていたので、男は妙な親近感を覚えていた。もちろん彼女がそんなことを知るはずもなく、ソクラテスに会えるか尋ねると、苛立ちまじりに答えた。
「ソクラテス? ここにゃあ、いないよ! こっちが会いたいくらいだよ!」
 確かに怖い女性だ、と男は思った。それならばと、ソクラテスが行きそうな場所やその人となりを聞こうとしたのだが、クサンチッペは噂に違わずきつい調子で、けんもほろろに「知らない。こっちが聞きたいくらいだ」の一点張りで奥へと引っ込んでしまった。
 ある程度予想していたとはいえ、日も高くないうちに途方に暮れることになるのは男にとって計算外であった。しかし、高名な悪妻の様子に変な感じがしたのを男は忘れなかった。彼女の芝居掛かった甲高い怒声と、その奥に滲む不思議な真実味というのだろうか。男は何故だかは上手く言葉にできないが、彼女は本当にソクラテスを知らないような気がしていた。そう思うと、アゴラでの一日にも重なってくる。皆、ソクラテスを知っている、見た見たと語るのだが、証言を重ねれば重ねるほど、当のソクラテスがぼやけていくのだ。
 
 デルポイは神からの託宣を得ようと多くの人が集まり、独特の賑わいをみせていた。そこに一人、違うものを得るためにやってきた男が混じっていた。ソクラテスに会いたい、例の男である。男は自分が知る限りの、ソクラテスの原点に戻ることにしたのだった。有名なソクラテスの神託は彼自身が受けたのではなく、彼の弟子の一人、カイレポンなる人物が「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねて返ってきた答えだったという。そこで男はカイレポンなる人物の足跡を探ってみた。しかし誰の記憶にも、どこの記録にも残ってはいなかった。その託宣を与えたという巫女当人にも会えたのだが、神託を聞こうとしない珍しい男に向かって、彼女は笑いながらこう答えるのだった。
「ええ。私が告げたことになっています。でも、私も『何も知らない』」
 巫女と別れてアポロン神殿を去る時、神殿の入口に刻まれた一つの格言を読み上げる誰かの声とすれ違った。「汝自身を知れ……」——この時である。ずっと燻っていた疑念が確信として爆ぜるのを覚えた男は、急いでアテナイへと取って返した。

 ソクラテスの弟子を自称する者たちは多かったが、ほとんどが不在だったり多忙だったりで門前払いであった。そんななかで男はようやく、一人の弟子を捕まえることができた。ソクラテスについて聞きたい旨を伝えると、彼は自宅の書斎へと通してくれた。書斎は、一般的な客間と変わりない位の広さがあった。身なりも清潔感があり、彼が裕福な家の人間であることを男は感じた。
「貴方は運がいい。私が責任者のアリストクレスという者です。ソクラテスを探している人がいると耳にはしていましたが、貴方でしたか」
 恰幅のいい青年は席を勧めながら、男に話しかけた。しきりに男を見ながら、よく鍛えられた両肩を窮屈そうに縮こめ、手に持った紙片にちまちまと細かい文字を書きつけている。男は早速感じた違和感をぶつけてみた。
「その……責任者、というのは」
「責任を持つ者、という意味です。で、聞きたいことというのは何です?」
 どうも返答になっていないのだが、仕方がない。男は単刀直入に、切り出すことにした。
「笑わないで聞いてもらいたい。ソクラテスですが……その、本当におられるんでしょうか。人それ自体が存在しない、というのか……」
 アリストクレスは初めはクスクスと小さく、最後には大笑した。
「やはり、おかしな話でしたか」
「いやいや、おかしくはない。おかしくはないです。気を悪くされたなら、申し訳ないです。貴方は正しい。そうです。ソクラテスなんていないんです」
 慌てて訂正しながら、嬉しそうに言葉を続けた。
「よく気付かれましたね。アテナイ市民でも大半は分かっていないでしょう。皆、知らない人間のことを知っていると言ってるんです。僕も知っている。貴方も知っている。でも知るわけがない。存在しないのだから」

 事の次第はこうだった。アテナイから新たな「知」のあり方を発信しようと彼らが仲間内で“ソクラテス”という人を創り上げた。彼の弟子であると自称し、その言動を広めて考えを浸透させていくのが目的である。弁論術に終わらない、自然や宇宙だけに留まらない、より人間に寄り添った「知」を生み出すための依代として、“ソクラテス”という哲人をつくったというのだった。
 アリストクレスは滔々とソクラテスから始まった現実の出来事を語ってくれるのだが、男にはそれがどういう意味を持つのか半分も理解できなかった。聞けば、悪妻の彼女は雇われているらしい。どうしてそんな面倒なことをするのか、全く理解できなかった。
「でも、存在しないからといって、会えないわけじゃないですよ」
 男は驚いた。
「ここで会えます。会っていきます?」
 アリストクレスが悪戯っぽく手招きすると、そこには机に乱雑に積まれたパピルスの束が置かれていた。どれも、びっしりと文字が書き込まれていたが、男はソクラテスには会えなかった。男は文字が読めなかったのだ。

 その後、男は二度とアテナイ市内に足を踏み入れず、ソクラテスのことを口にすることもなかった。男に秘密を明したアリストクレスは、のちにプラトンと呼ばれることになる。彼はこの時出会った男の印象を、自分の著作の中に閉じこめた。田舎からソクラテスに会いに来た男の名「クリトン」は、プラトンが書いた対話篇に登場するソクラテスの誠実な同年の友として歴史に残ることとなった。




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